札幌市北区新琴似の飲食店、地域事業組合「新琴似中央商店会」
 












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■屯田兵によって開かれた新琴似
新琴似最初の居住者は、明治20年5月20日に、主に九州方面から来た146人の屯田兵とその家族ら668人です。大半が元武士だった屯田兵たちは大木が生い茂り、昼間も暗い地に入ってその大木を切り、荒れ地を耕す一方で、軍事訓練も行っていました。

この屯田兵が入植するに当たって、明治19年、現在の新琴似神社境内の屯田兵中隊本部が建てられ、以後各地に屯田兵が入るようになりました。当時は現在の琴似に第二中隊があって、この地は隣の第三中隊つまり琴似につづく「新琴似」と名付けられたのに始まります。

昭和30年に琴似町が札幌市と合併するまで新琴似は琴似町の一部でしたが、昭和47年4月1日、札幌市内を7区に分けたとき、琴似は西区に、新琴似は地元の強い要望もあって北区にと分かれても、地名だけはそのまま残っています。

■番通りと横線の関係
屯田兵が入植する前、屯田兵を監理する屯田兵本部が屯田兵の1戸当たり4千坪の土地と住宅をあてがうために区画割りを行いました。その区割りでは琴似から篠路方面に向けて直線に引かれていた茨戸街道を幹線に、直角に北東へ2百間(360m)ごとに6本の道路を引いて、南側から一番通り、二番通りとし、屯田防風林前を6番通りとしました。番通り間(100間)ごとに細い道路を設けて、これを「100間境い」と呼び、この100間と横40間内を一区画としてこの中に16戸の屯田兵を入植させました。

この番通りと交差して40間ごとに南北に走る道路を横線と呼び、現在の中央商店会は四番通りの第二横線から第三横線までに位置しています。新琴似のまちは100年も前から碁盤の目になっていました。

■新琴似の開拓をおこなった屯田兵 ■新琴似屯田兵本部(建設は明治19年)




■四番通りを中心とした発展
昭和19年から20年にかけて四番通りは軍用道路として利用することを目的として拡張されました。もともとは戦闘機の滑走路として運用する計画でしたが終戦となったために滑走路として利用されることはありませんでした。工事際に玉石や砂利を積んだトラックが何度も往来したために穴だらけの道だけが残されたため地元の人々は大変な苦労をいたしました。

戦後の復興を目指す昭和21年から30年代の初めにかけて四番通りを中心とした新琴似地区は、まだまだ一雨降るといたるところが泥道になり場所によっては腰までぬかるところも珍しくはありませんでした。

昭和30年から初頃の四番通りは、新琴似神社の東側(現在の麻生方面)に明治末から数件の商店しかなく、西側(現在の新琴似中央商店街区域)には農家がぽつんぽつんと点在するだけでした。昭和34年、そんな場所に商店(※1 小林商店)が作られましたが、地域住民は「畑の真ん中の店に人が来るのか?」と、口々に心配をしたそうです。

それより数年後、全国的な復興と高度成長を経て、都市化の波が押し寄せることとなります。新琴似地区も宅地造成がおこなわれ四番通りは生活の中心となるメインストリートとなりました。昭和50年代に入ると街は急速な近代化を遂げ、現在の原型となる商店街が形成されることとなります。

■※1 資料写真(昭和34年頃の小林商店) 昭和50年、雪解け始まる3月頃の4番通り










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